孤独部の日誌

名古屋とサウナとひとり旅

NEO企画『やけたトタン屋根の猫』を観た

11/9(日) 13:00-の回を観てきました。

7月にやらせてもらったAAFリージョナル・シアター2014『こころ』で、同時上演させていただいた菊本健郎さんの劇団"NEO企画"の公演。このときは夏目漱石「こころ」を原作にした1時間の演劇作品をそれぞれつくるという企画だったんですが、ぼく演出のチームとは真逆の、原作の世界観に忠実な、ストレートな形式での作品でした。

 

 戯曲はテネシー・ウィリアムズ『やけたトタン屋根の猫』

 

以前、ちょっと演劇史を勉強しようと思って何冊か本を読んでみたことがあった。

現代戯曲の設計―劇作家はビジョンを持て!

現代戯曲の設計―劇作家はビジョンを持て!

 

そのとき手にとった中の一冊、この本に、このテネシー・ウィリアムズという劇作家の名前が出てきたのを憶えていて、気になっていた劇作家だった。

 

ちなみにぼく、いちおう演劇かじっているくせに恥ずかしながら全然勉強していない。とりあえず本を適当に手にとって読んでききかじった位の知識しかない。どこかでざっくりとでも学ぶことができたらいいなぁとよく思う。勉強会やりたい。

 

このテネシー・ウィリアムズは1911年生まれ、この『やけたトタン屋根の猫』は1955年にニューヨークで初演。まだつい60年前の作品である。

 

あらすじ

米国南部の大富豪の農園主はがんで余命いくばくもないが、本人はそのことを知らない。同性愛の恋人を失った次男、ブリックは酒びたりの日々を送っており、妻のマギーは愛を取り戻そうと必死になっている。長男、グーパーとその妻メイは父が間もなく死ぬことを見越して財産を狙っており、農園主の誕生日に集まってくる。

熱いトタン屋根の猫 - Wikipedia

 

テネシー・ウィリアムズ wikipediaの略歴からでもわかるのだけれど、この作家、じぶんの経験がかなり戯曲に反映されているよう。この『やけたトタン屋根の猫』でも、アルコール中毒の主人公、ギスギスした家庭環境、ゲイと思われるような、友人との関係。

 

舞台は屋敷の、主人公ブリックの部屋。 舞台美術はAAFリージョナル・シアターのときと同じく、岡田保さん。いま名古屋のあらゆる劇団からひっぱりだこの舞台美術家。

今回は特に、物語が部屋でのみ展開することもあってか、舞台美術が力強く世界観をつくりだしていた。

休憩を10分はさみながらの2時間50分。

時間のわりに物語が劇的に展開する感じもしないが、最後まで見入った。昼ドラのような、ホームドラマのような印象だった。海外の戯曲、翻訳劇なので違和感があるかと思えば、それも最初の数分だけ、自然に観ることができた。

 

 

古典戯曲(といっても60年前だが)を上演するというときにぼくが意識するのは、「なぜ今、その戯曲を扱うのか」ということだ。

 

夏目漱石「こころ」が、ぼくにとって実質初の原作を置いての制作だった。そのときに、"なぜ今「こころ」なのか"を考えさせられたし、菊本さん演出作品と並べたときに、そちらにもそのような点を感じた。

今回の作品でも、そのような"なぜ"という問いをもって挑まれたのをなんとなく感じた。

 

『やけたトタン屋根の猫』で描かれている家族のあり方や人物のあり方は、現代日本においては、わりと実際にありうる風景だと感じた。フィクションに現実が追いついてきた/追い越しつつある世界(社会)だと思った。

その上で、古い価値観と新しい価値観とのせめぎあい(これはどちらが正しい・正しくない、という話ではない)が演劇という形で目の前に表出したと捉えたとき、どう受け止めるかという客席こちら側のあり方が問われているような気持ちになる。

 

おそらくこの戯曲の初演のときと、この日ぼくが観たときのこれとは、観客の受け止め方は多少違っていたのだろう。その60年という時代の変化を想像させられた。

 

 

というわけで、いわゆる古典戯曲に興味をあらためて持つきっかけになった。

先日図書館で、イヨネスコの戯曲集を借りてきてみた(イヨネスコもちょうど、テネシー・ウィリアムズとほぼ同時代の劇作家)。読むのがたのしみ。