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なるべくまいにち

名古屋で暮らしてます

人形劇『胎児の夢』アフタートークに出演してきました


明日アフタートークするOPT『胎児の夢』の原作についてちょっと予習してみた - できれば生で見てほしい


昨日のブログにかいた、OPT(オブジェクトパフォーマンスシアター)『胎児の夢』のアフタートークに出演してきました。

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はじめての人形劇。演出の木村繁さんには今年夏にあったAAFリージョナル・シアター2014『こころ』などでお世話になっていますが、作品を観るのははじめてでした。

いやー、びっくりした!

多くの人が人形劇という言葉で想像するのとはおそらく違うであろう、かなりブッとんだ作品でした。ドグラ・マグラが原作だからかと思ったら、おはなしをきいた限りはそうでもなさそうな気配です。

アフタートーク(上演後のトークセッション。主に演出家とゲストの対談形式をよく見かける。今回もその形でした)は、これまで何度か経験しているのですが、全然慣れません。でも作品もお話もひっくるめて、とても新鮮な体験ができるので嬉しい。(これを読んでくれてるそういう関係の方、もしぼくでよければぜひ誘ってください!)


以下、ネタバレも含めて、観ながら考えたことなどを書こうと思います。



ドグラ・マグラの解釈について

まず、昨日のブログでかいたこともあって、原作ドグラ・マグラの解釈的なところから。

ラストに胎児が生まれるシーンがあって、そのシーンが水を使っていてとても美しかったのだけれど、その直前のあたりで、「これは全て胎児の見ている夢だ」というような台詞が出てきていた(正確な台詞がわからないので全然違うかもしれない)。

そこではっと気づかされたのが、この、今この瞬間に現実として息を吸い、聞き見ているということが、もしかしたら本当にはそうではなく、本当の自分はまだ胎児で、この「胎児の夢」とやらを見ているだけなのかもしれない、ということだった。

よくある話だと、「本当は自分は植物人間で、現実だとおもっているのは夢の中での出来事だ」みたいなこと。マトリックスの世界観みたいな。

そう考えると、昨日のブログで気になっていた、"生まれた胎児はどうなるのか"というのにも自ずと答えが見えてくる。
それはつまり、今見ている夢(=現実と思い込んでいるもの)が終わるのだから、この今の自分は死ぬということ。そして、もう一度一から"胎児の夢"をはじめるだけのこと……

つまりこの"胎児の夢"には終わりがなく、終わった(死んだ)と思ったらまた始まり(生まれ)、同じ夢を一から繰り返す。そしておそらく最後の少しだけ何か足され(?)、また一から繰り返し……ということではないだろうか。

と、ここまで書きながら思ったのだけれど、今生きている自分は何も、この"胎児の夢"のように一から全てを追体験してはいない(少なくとも今の記憶には残っていない)から、それはちょっと違うのか……?

というようなことを考えていて、原作ドグラ・マグラはすごいヤバイかも、というこ思考に至った。

同じような音ではじまり終わるこの小説は、いわゆるループ物であると解釈することもできると思うのだけれど、このループの構造が、この胎児の夢という考えと結びつくことで、この小説自体が、夢(フィクション)か現実かというところから抜け出して、つまり読者(観測者)を必要とすらしないで、まるで虚数のようなところで独立してループを繰り返している……と考えることができるのかもしれない。

自分で書いていても意味がわからない文章になっている気がするが、なんとなくわかっていただけるだろうか。

とにかくループすることを、単にそういうものだよね、不気味だよね、で片づけずに、非常に重要なモチーフとして取り扱っているように感じた。

人形劇という手法に驚かされたこと

人形劇(というくくり方もあまり意味はないが)を観たことで目からウロコだったことがいくつもあった。

やたら生物味のある人形・モノ

人形、あるいはモノを主体とすることで、かえって人間の身体性が浮かびあがってくるように感じた。

たとえば、一つの人形を一人の人間が扱ったときに、その人の念がその人形に込められているように感じ、ただの人形ではない、"生物味"を感じた。それが不思議にその操る人の身体性というか、特徴が反映されているような気がして、まさにその人の念だなあと感じた。作品の雰囲気もあいまって、それは人形が生き生きしていたというより、もっとどろどろした人間味のある物体になっているように感じた

これはすごく驚いたことで、いわゆる普通の芝居のように、生身の人間が何かの役を演じるより、場合によってはずっとリアルに感じるだろう瞬間があったのだ。人間ではありえないような一挙手一投足にである。不思議だ。

真似したくてもできない、質感

モノ独特の質感は、人間による俳優では真似できない圧倒的な説得力があった。
たとえば、登場する人形の一体は新聞紙でできている
そうだけれど、これは新聞紙をいくら身にまとっても表現できない質感だと感じられた。
また、それとは別の素材でできた人形が現れたりすると、到底人間だけでは描ききれないような差異をその二者に感じることができる。人間だと、どれだけ見てくれや演技を別のコードにしたところで、やはり人間が演じてる以上、たとえば犬と猫を演じてるとすれば、本物の犬と猫ほどの違いを感じることは難しい。
それが人形となると、その質感の違いから、それ位の差異を感じることができたりする。これは羨ましいとすら少し思った。

自在な空間の遊び方

人形にしてもモノにしても、操る人間が持ち上げたり振り回したり色々できるから、ただの人間の身体を用いるよりもずっと自由に舞台を飛び回ることができる。

印象的だったのは、浮遊する人形がゆっくり移動していくところ

あれはなかなか生身の人間だと表せない気がする。映像でもそういうカットはあっても、実感としてふわふわたゆたう感じがあんなに伝わってくるのは、あんまりない。意外と人形劇独特の、ライブ感の中での表現手法だなあと思う。(あの感じを他にも出してるものがある気がするけどなんだろう。探してみたい)

木村繁さんの作品づくり

アフタートーク後にロビーですこし演出・木村繁さんに、どのように作品をつくっていったのかきいたのだけれど、脚本がありきではなく、絵(どこに何があり、みたいな視覚的なところ)からつくっていき、テキストなどを当てているとのことだった。
これにもすこし驚いた。自分もときどきそういうつくり方をするときはあるけれど、木村さんの普段の感じからすると、作品の感じもつくり方もちょっと意外でした。

アフタートークの中でも「若い子に見てもらって、こういうのに挑戦してみてもらいたい」というようなことを(なんかぼくの都合良く言い換えてるんかもしれん)言われていて、ぼくはなんだか「あっ、こんな自由にやっていいんだ」みたいな、ちょっと背中をおされたような気持ちになりました。

これまでモノをほとんど扱ってこなかったのもそうだけれど、意外と無意識に「アレはダメ、コレはダメ」と自分ルールをつくってしまって、それがいい方に作用してるならいいんだけれど、それにがんじがらめで自由じゃなくなっていくのかもしれない。無意識につくっている壁を取っ払い、新しいことにもっともっと挑戦していきたいなと思い直す機会にもなりました。


……と、まただらだらと長く書いてしまった。これじゃ感想というよりただの備忘録だ。

ちなみに明日も公演あります。ほかのアフタートークされる方が何話してるか気になるなぁ……



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