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ポストモダンについて

最近はこの本を読み出した。 

 

たのしい写真―よい子のための写真教室

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まだ読み始めなのだけれど、この中で"ポストモダン"というワードが出てきた。まだこの話のところは読み進めてないのだけれど、久しぶりにこの言葉にぶつかって思うところがあったので、書き記してみようと思う。

 

ポストモダン(英: Postmodern)とは、「モダン(近代)の次」という意味であり、モダニズム(近代主義)がその成立の条件を失った(と思われた)時代のこと。

ポストモダン - Wikipedia

 

ポストモダンと呼ばれる現代だけれど、果たしてポストモダンとは一体何なのか。これは、ポストモダンという言葉を使っている限りは答えに辿り着けない問いのように思う。

「モダン(近代)の次(ポスト)」を意味するポストモダンという言葉は、モダンという前提があってはじめて成り立つということになる。だからポストモダンとは何かと考えたときに、それはモダンとの比較から考えることになってしまう。

モダン=近代は、18世紀ごろ産業革命ヒューマニズムの流れが起こったときからだと言われていて、それはつまりそれまでの世界観から一変し、人間中心主義である時代を指す。20世紀まではこの思想で、それを信じて人間社会は発展してきた。

 

21世紀に入るころ、つまりポストモダンという言葉が出始めたころ、この言葉を使う人たちはおそらく近代の終わりを感じていたのだと思う。でなければモダンの次という発想は生まれてこないだろう。

しかし、近代の次が何かは明確ではなかった。だから「近代の次」という言葉で、これからくる新たな時代を指し示して語ってきたのだと思う。

 

21世紀ももうすぐ15年目になる。2001年に世界同時多発テロで幕をあけた。日本では2011年に東日本大震災があった。阪神大震災を小学生のときに体験した(といっても愛知のぼくはニュースで見ていただけだが)ぼくとしては、この震災は妙に阪神大震災より騒がれるな、と感じた。今も感じている。

震源地からそれなりに距離のあるここ名古屋でも、あいちトリエンナーレ2013のテーマは「揺れる大地」だった。だからというわけではないが、こんなに芸術分野のひとが震災に目が向いたというのは、阪神大震災のときもそうだったのだろうか。原発の影響があるにしても、どちらも未曾有の大震災であったわけだから、阪神のときも同等の注目を集めてもいいのではないか。と少しばかり目の向け方の違いが不思議だった。

その理由はきっと色々具体的に挙げられるのだろうけれど、思うにこの違いは、阪神大震災が90年代の怒涛の中で(同年は地下鉄サリン事件が起きているなど)、世紀末からの終末的世界観が蔓延していたのが大きいと思う。自分も小さいころはノストラダムスの大予言を信じるか?ということで子どもながら盛り上がった憶えがある。それを信じていなかったにしても、あの時代はバブルも弾けたあとだったからだろうか、わりと世相はそういう感じだったように思い出す。つまりあのときは、数ある怒涛の世紀末大事件の一つだったと解釈したように思うのだ。

 

それに対し三年前の(もう四年近く前になるのか)東日本大震災は、日本の近代の終わりに位置づけられたのではないかと思う。原発事故がその最たる象徴だと思うのだけれど(20世紀、高度経済成長の中ではクリーンエネルギーともてはやされていたのだから、その真逆さは明確だ)、あれが日本がポストモダンと呼ばれる時代に突入したとする転機だったと考えてもいいのかもしれない。それ位、阪神大震災とは違った衝撃を日本社会は受けたし、だからきっとアートの分野でも扱うことがあったのだろう。

 

そこで考える、「ポストモダンとは何か」。

世界同時多発テロ直後の日本を舞台にするチェルフィッチュ『三月の5日間』が日本の演劇において大きくポストモダニズムに舵をきっているように感じるのだけれど、もう一つ、マームとジプシーは、例えば『塩ふる世界。』をはじめ、子どもと、自殺がよく出てくる。ぼくはこの二つがポストモダンについて考えるときに気になることだ。特に自殺。日本では年間約三万人が自殺している。テロにしても戦争にしても震災にしても自殺にしても、現代の人間はどこかで死をかなり身近に感じている、あるいは感じようとしているのではないか、と、これは個人的な感覚のレベルでだが、感じている。映画やゲームやドラマやアニメや、なんにしても死の経験を日常的に身近に追体験するというのも増えている気がするし、人口的に高齢者が多いからか、意識しなくとも最近、遺品整理とか財産分与とかそういう、現実的な死についての話も耳にする機会が多くなったように思う。

そんな中で子どもが生まれ育ち、死というものに、身内の死やペットの死とは別の意味で、つまり以前とはちょっと違う意味で、触れて考える機会が増えているように思うのだ。

 

ポストモダンとは、これからは成長ではなく衰退するという時代ということだと思う。

モダンが成長を掲げた時代だとしたら、少なくとも日本ではもうバブルがはじけて20年、高齢化社会であることからも成長を信じることはできなくなっているし、世界的にもこれまでのような近代的成長を信じつづけるのは難しい局面まできていると思う。先進国も取って代わられうる予兆も感じるし。

日本は、そしておそらく世界の先進国はどこも、それを認めたくないのだと思う。自分たちが衰退していくということは認めたくない。体の衰えを感じてもまだまだと気張ってしまう中年と同じだ。だから日本はこの20年を「失われた20年」と形容するし(自分が学生のころ、失われた10年と習った気がするのだけれど、いつの間に20年に更新されたのだろう)、この言葉の裏には、"まだまだ成長できる"という前提が含まれていて、さすがに20年間こうで、しかも高齢化社会になりつつあるのに、つまり確実に老いているのにそれはないだろうと思う。まぁ心情はわからんでもないが。

 

そんなわけでポストモダンが「近代の次」という言葉から抜け出せないのは、ポストモダンとは衰退の時代であることをどこかで察知していて、さすがにそれを推し進めるのは気が引けるという思考なのだと考える。

余談かもしれないが、「小さな社会」だとか階層化だとかコミュニティの乱立だとか、そういう言葉は、細胞分裂みたいに、古い細胞が二つに分裂することで一つ一つが大きくなる、という期待を込めて使われているようにも思うけれど、実際はきっとそんなことはなく、ただ分離し数がただ増えるだけで全体の体積が大きくなることはないと思う。だから分立していくのではなく、全体で一つにまとまってどう上手に縮小していくかが本来の「小さな社会」という言葉の目指すべきところだと思うのだけれど、なんだか都合よく言葉の意味を履き違えているように思う。例えばコミケなどのオタク文化(もうオタクって言葉も使わないか)も、パッと見市場規模はデカそうだけれど、長期的に見れば若年層がどんどん減っていく中で今後どこかで衰退していく可能性はあるし、現にそれ以外の分野ではきっとすでに起きている(ライブハウスの人口は一昔前よりおそらく少ないだろう)。

これはあくまで例で例えだけれど、このような状況下で細かく細分化されていくよりも、全体としてその規模をどう保つか(拡大ではなく、なるべく緩やかに縮小すること)を目指すしかなくなっていくのだと思う。

 

ポストモダンが衰退の時代だというのはぼくの考えにすぎないけれど、何にせよこの「ポストモダンとは何か」という問いに、モダンを用いずに答えなくてはならなくなってくるだろう。というかすでになっていると思う。この問いに正直に答えるのを留保してきたために、未だすでに寿命の切れたモダンにしがみついているような、そんな気がしてならない。

 

哲学(現代思想)もそうだけれど、現代という時代の中で芸術に関わる以上、この問いについては考え続けていきたい。そしてやはり、更新しなくてはならないと思うのだ。更新を担う者だけに許された、自分の意思を表明する機会の訪れに、少しでも美しい可能性を提示できたらと思う。