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なるべくまいにち

名古屋で暮らしてます

ブログについて

ブログをかきはじめて二ヶ月近く経つことに気づいたのだけれど、果たして書き続けることにどれほど意味があるのだろうか。

書き始めの頃、何を考えていたのかはすでに忘れてきているけれど、ここ最近はこれは思考の記録だなと思うようになった。

最初の頃こそ人に読んでもらうこととか意識して、人目に触れる文章をなんて思っていたけれど、あんまり書いてて面白くないし別にアクセス数が今の今まで伸びることもないので次第にどうでもよくなった。そもそも興味をもってはてなブログではじめてみたものの人気ブログをいくつかフォローして(読者と言うのか)しばらく読んでみたものの格別ピンとくることもなかった。この先に何かあるのかもと思ったけれどなさそうだ。仮にあったとしても、少なくとも自分は辿り着けそうにない。

さっきまでEテレで再放送していた日本戦後サブカルチャー史を観ていて、今日は90年代だったのだけれども、そういえばぼくは昔からネットに興味はあったんだけれどいまいちその中に入って楽しむことができずにこれまで来た気がする。90年代後半、中学生くらいの頃にはうちにもパソコンがあってまだ今とは随分違うインターネットに触れていた。仲の良かった友人はチャットにハマっていて、一度そのチャットで知り合った女の子に会うってことでついていったことがある。たしかカラオケに行った、あのとき一緒になった子のことは全く憶えていない。

特にネット上で知り合いができることもほとんどなく、それでも自分でホームページを見よう見まねでつくってみたりして、BBSやカウンターも取り付けたあの個人ホームページというものをぼくもやっていた。あれからそれこそ15年以上経つわけだけども不思議なもので、あのときは随分自由なものが手の届くようになった気がした。のだけれど、今となってはTwitterFacebook、せいぜいブログがいいとこで誰も彼もが同んなじテンプレの枠の中で似たようなことを書いている。あの頃の自由とは何だったのか。ぼくら現代人は結局自由を持て余して、望んで枠の中に収まるようになったのかもしれない。

先に挙げた番組を観ながらエヴァ以降のアニメはテンプレ的ストーリーの焼き増しばかりを結局していて意味や思想は剥落しているのかもしれないな、なんてすこし思った。それはアニメだけじゃなくって音楽も演劇も、他の色々も、ほんの一部を除けばそういう、色んなものが剥落した状態で、どんぐりの背比べで勝った負けたを競い合って喜んだりしているようにもちょっと思えてくる。

自分が今いる名古屋という土地柄のことをミソゲキがあったこともありしばしば考える。今日初売りで賑わう栄から矢場町、そして上前津にかけて歩きながら、賑わう人々の姿をぼんやりみながら思ったのは、きっとこの黒色の多い似たような人たちのほとんどは今の生活に十分満足していて、これ以上何も欲していないのだろうと思った。欲するということを忘れているのだと思う、せいぜい福袋一つ買いたいという目先の消費、それだけにほとんどの関心が向いていて、何かおもしろいことはないかとどこかで仮に思っていたとしても決して触手を自分から伸ばすほどの労力は使わないだろう。そしてそれは悲観することではなくむしろとても幸福なことだと思う。それ位この地で生活する私たちは十分に満ち足りているということだ。(関係ないけどマイルドヤンキーと呼ばれる人種は愛知に住む人間の多くに当てはまる言葉だと思った。)

ほかにもこの土地柄については色々考えを巡らせた今日だったけれどまだまとまってないので置いておく。

何かの衝動に駆られて書き始めたもののなんだったのか書いているうちにわからなくなってしまった。どうせ書くならおもしろい文章を書きたいと思ってはじめたブログだったけれど、今は別にどうでもいいかなと思っている。人の波を目の前にして受け入れられたい、認められたいと思う自分も勿論いるのだけれど昔からそういうタイプではなかった。答えはまた別に見えているような気もするのだけれど、とりあえずそう感じてむなしくなる。その虚しさはなによりそう考えてしまう自分自身に向けられている。
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