さっきまでEテレでやっていた吉本隆明の特集をみていた。
名前は知っていたのだけれど、いまだに本を読んだことがない。この番組では時代背景もあいまって紹介されており、みて興味をもった。今度読んでみようと思う。
改訂新版 共同幻想論 角川文庫ソフィア (角川ソフィア文庫)
- 作者: 吉本隆明
- 出版社/メーカー: KADOKAWA / 角川学芸出版
- 発売日: 2012/12/17
- メディア: Kindle版
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昨日今日と、名古屋は栄にある愛知県芸術劇場小ホールでは「近代戯曲研修セミナーin東海」というのをやっていて、二日連続で足を運んでいる。
今年は(といってもぼくは今年初めてみてるのだけれど)"日本の近代戯曲"を取り上げていて、古典戯曲や伝統芸能など、そういうものについて全然知らないぼくとしては、学ぶとっかかりにいい機会となっている。まぁ色々考えたり思うことはある。
ぼくは昭和最後の年の生まれで、だから物心ついてからはもう平成だったので、平成になってからのことしか知らない。ちなみに未だ、パスポートはおろか飛行機に乗ったこともないので、平成の日本しか知らない。
だからというわけでもないが、歴史を、特に物心つく以前のことを振り返るときの認識の仕方が、もっと長く生きてる人と比べて、やっぱりちょっと違うように感じることがある。
これはぼくだけがそうなのか、それとも同じ位の人にも実は同意を得られるのか、どちらかまだはかりかねる。少なくともぼくは、以下のように捉えている節がある。
こんなことを書くと何を言ってんだと思われるかもしれない。
うーん、とても極端。でも自分が物心つく前のは、頭でその時代や発表年、時代背景などをわかっちゃいても、やっぱり実感は、それに比べるとあまり伴ってこないのだ。
国語の教科書がそういう感じだった。高校くらいでこそ古典という授業があったけれど、中学くらいまでは同じ一冊の国語の教科書に、小説からエッセイから詩や短歌、年代もバラバラに載っていた。認識が、まさにああいう感じなのだ。全て"教科書に載ってたやつ(みたいなやつ)"なのだ。
反対に物心ついてからリアルタイムに触れてきたものは、それに比べるとわりと分別がついている。もちろんそれはここ20年程度の、主に流行り物ばかりなのだけれど、ともかく実感としての認識では、それはわりと「ああ、あのときの」という感じで、自分にとって現代的なものという認識がある。
ぶっちゃけ、そういう感じなのだ。
だから、古典戯曲(というか、物心つく前くらいの過去に書かれたもの)を上演するというのは、"なんで(わざわざ)今やるのか"ということが気になって仕方がない。
やっぱり、作品には、いくら普遍的なものであったって、その時代時代の空気がそこには閉じ込められている。
かといってそれをただ再現する、というのはあまり面白くない(もちろん面白い場合もあるだろうけど)。
というか不可能だ。いくら文献を読み漁ったり勉強したところで、その時代時代の空気を肌で感じることはできない。肌で感じられないということは想像でしか手が届かないということだ。
そういう克服しえない壁に阻まれながら、それでも古典を扱うというのは骨の折れることだなぁと思う。
というところまで書いて昨夜は寝てしまって、今日は1月17日。阪神淡路大震災から20年になる。ぼくはもうすぐ27になるので、当時は6歳だったことになる。
先に書いたようにぼくは昭和最後の年の生まれだから、ぼくより下は平成生まれだ。平成生まれの大半は、阪神淡路大震災のときの記憶はほとんどないだろう。
あのときは高速のバイパスが横倒しになっているような映像がテレビのブラウン管に映し出されていた。あの衝撃は今も忘れられない。当時関西の方に行ったことなんてなかった。幼かったぼくの距離感としては"遠い場所"だったけれど、それでも衝撃的だった。
衝撃的な映像といえば、9.11の、世界貿易センタービルが崩れる瞬間も強烈に記憶されている。今の高校生くらいは、あのときまだ物心ついていないんじゃないだろうか。
こんな風に、今度はぼくがリアルタイムで見聞きした出来事が、過去のことになっていく。歴史の教科書の申し訳程度にある現代史のところにも、きっと書かれているのだろう。
彼らにとっては、これらも"古典"なんだろうか。
戦後70年になるから、もうほとんどの人が日本の戦争体験は知らないし、あの節目に何があったのかも肌で感じることはない。
過去の出来事や作品にあらためて触れるということ。そのことがもたらすこととはいったい何だろう。そんなことを、この数日考えている。