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なるべくまいにち

名古屋で暮らしてます

気づいたら擬人化していた

最近はよく本を読んでいる。


前にも「読書にハマっている」と書いたけれど、続いているみたいだ。前の記事の日づけからすると、ちょうど丸一ヶ月になる。
ハマっている、といっても、ぼくは読書家ではない。それまで全くといっていいほど本を読む習慣は失っていた。

読書はある種の現実逃避だ。
小さいころやってたゲームとか、そういうのと実はおんなじ類に今のじぶんにはなっているのを、薄々感じている。
つまり他に、やるべきことがある。
それでも読書だと、ゲームや他のことに比べて、罪悪感が薄い。これも勉強、と言い聞かせている(実際問題、読もうと思っている本もあるし)。

ところで、同じ"読む"でも、パソコンやケータイの画面で読むのと、書かれたものを読むのは、ずいぶん印象が違う。

ぼくらは(つまり今、このブログを読んでくれている人は)、当たり前に画面越しに書かれた文章に慣れ親しんでいる。この文だってそうだ。おそらく画面越しに読んでくれていることだろう。
まさかわざわざ、ぼくのブログをプリントアウトして持ち歩き、あるいは丁寧にファイリングなんてしている人はいないだろう。ぼくだってそんなことしていない。ぼくに至っては、この文章はスマホでポチポチ(ボタンじゃなくてフリック入力だから、"ポチポチ"じゃないが)打ち込んでいる。読むのも書くのも画面上だ。

でもなぜだろう、こうやって書いていて(というより打ち込んでいて)なんだけど、どうも画面越しに読み書きするのが好きじゃない。
全然実感がないのだ。読むのも書くのも。
なぜだろう。

書く方は、まぁわかる。
ぼくは脚本を書くとき、多くはノート上にボールペンで書きつける。ゴリゴリかく。このゴリゴリというのは、かく分量やスピードではなく、文字通り"ゴリゴリ"かくのだ。
ぼくは筆圧が強い。
だから小学生のとき、鉛筆やシャーペンをバキバキ折っていた。
とにかく、ゴリゴリかくことで、その出来不出来はともかく、書いた実感は右手の疲れとして、あるいは小指の側面の汚れとして残るのだ。

しかしパソコンもスマホも、手は汚れない。
いや、巷ではキーボードがトイレの便器より汚いみたいな話もあるが、いま言いたいのはそういうことではない。
書いている実感がないのだ。

そして、書く方はこういう理由で納得していたのだけれど、どうやら読む方も、紙と画面では異なるようだということに、気がついた。

本は、灯りがないと読めない。
夜中寝る前なんかに本を読もうとしても、灯りの向きが悪くって、どうしても文字に影が落ちてしまって、身をよじったりしながら読書に励むということが、ままある。手先が器用でないぼくは、本も両手でしっかり開かないと落ち着いて読めない。

画面の文字はどうだろうか。
パソコンにしてもスマホにしても、文字の方から光として目に飛び込んでくる。
灯りもいる上に、開いてやんなきゃ姿を現さない本の文字に比べたら、なんて自己主張が激しいのだろう。
「あたしを見て!」と言わんばかりだ。
さらに、スマホに至っては、就寝前真っ暗闇の布団の上でごろんと横になっていたって、片手で見れる。電車のつり革に掴まりながらだって見れる。なんてお手軽で、神出鬼没なんだろう。

こうしてみると、両者同じ文字であっても、そうとう性格が違ってくるように思えるのだ。

ときどき青空文庫で昔の小説を調べて読んでみることがあるのだけれど、脳みそへの入り方が違うように感じるのは、初めて読んだときから年齢を重ねたという理由だけではないように感じる。
ことばの性格が媒体によって、無意識のところでずいぶん変わってしまっているように思えるのだ。


だから、自己主張の激しい画面越しのことばを前にすると、こちらもちょっと気おされて消極的になる。マシンガントークの女の子を前に相づちを挟むのがやっと、みたいな気持ちだ。
一方、本のことばはシャイだから、こちらからガツガツいかないといけない。話しかけるように、そして耳を傾けるように読んでいかないと、その口を開いてくれない。

どちらがいいということでもないが、ぼくはやっぱり、ちょっとシャイくらいな女の子の方が、どちらかというと好みなのである。


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