なるべくまいにち

名古屋で暮らしてます

人形劇について考えてみる

「劇作家とつくる短編人形劇」の稽古がはじまった。

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2度の稽古を経て、まだほとんど全く内容に取りかかってはいない。まず「人形劇とは何か」ということについて、思索している。

幼いころしていたような人形遊びなどを試みたりしながら至った考えを、一度ことばにまとめてみようと思う。

***

まず、これまでのぼくの作品では、モノが出てくることは少なかった。

先日の『大学生』も、椅子や机がある位で、ほぼ素舞台だった。やろうと思えば部室(軽音サークルの部室を中心とした舞台だった)を再現することも可能なのだが、それをしなかった。

なぜモノがあまりないのか。それは、"モノと人(俳優のからだ)は等価値"という価値観によるものだということに、気づいた。

人のからだだって、モノだ。だから人だろうとネコだろうとおにぎりだろうと何だろうと、それはそこにあるモノにすぎない、というのがぼくの考えだった。

だから、人を見せたいと思ったときに、不必要なモノを省く必要があった。見せたいモノ以外は省く。それが『大学生』をはじめ、これまでの多くの作品でとってきた態度だった。(だから、かしやま作品はよく照明が必要最小限まで絞られる。これも要らないモノを視界から取り除くためのことだった)

今回は「人形劇」である故、人形(=モノ)が登場することになりそうなのだけれど、それをどういった姿勢で扱うのか、ということをここのところずっと考えていた。今の時点での考えは、先に述べた通り、"モノと人は等価値"ということだ。(これがおそらく、今回のぼくの作品の前提になることだろう)

ときに人間はモノより優位であると思ったり、反対に思いもかけずモノに支配されていたりするということが起きていると思うのだけれど、人間のからだもモノも、原子の集まりでしかないということを思えば、そこにはなんの優劣はないように思える。


"人のからだもモノである"と考えると、今度は、「では人とは何か」という問いが出てくる。

今回の題にもある"人形劇"のおもしろみだと思うのは、モノがまるで生きているように見えることがひとつ挙げられると思う。

モノが生きているように見えるのはなぜか。それはそこに意識があるように見えるからだと思う。その意識の出どころを辿ると、それは操っている人の意識。つまり、その人の意識がその人のからだを離れ、人形(=モノ)に移っている状態なのではないだろうか。

これが、今回の演技の根幹になりそうな予感がする。
これは人形を使わなくともそうで、自分のからだのどこに意識があるのか、ということ。たとえばお腹痛いときには意識が全てお腹にいくように、わたしたちはいつだって自分の全身を把握しているなんてことはないように、大抵それはある一点に向かっているのだろう。

まだ思索の途中ではあるが、作品の前提となる考え(モノと人は等価値)と演技の根幹(意識の位置)が見えてきた。ようやく、スタートがきれそうな気がしてきた。

「ごちゃごちゃと難しいこと考えてるな」と思われるかもしれないが、作品は至ってシンプルで、くだらないこともやります。
(だってタイトルの一つが、『おちんこでる』ですよ……。)

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半ば自分のためのメモ書きでありました。公演は6/19(金)-21(日)。試行錯誤しながら、これまでとは違った試みに挑戦しています。
ぜひご覧いただけたらと思います。