孤独部の日誌

名古屋とサウナとひとり旅

村社会というワードについて

村社会」。

先日、とあるトークイベントでお話をきました。それから、ぼんやりこのワードが、頭の片隅に漂っている。

このトークイベント、京都に拠点を置く劇団「地点」の三浦基さんと、愛知の児童劇団うりんこの平松さん(と、愛知県文化振興事業団の山本麦子さん)のトークイベント。

演劇のトークイベントなので話題は「演劇とは」「演出とは」「劇場とは」というはなしだったのだけれど、なかなか濃い話がきけた気がして、おもしろかった。

劇場の機能、みたいな話が後半にがっつりとあって、三浦さんのおはなしにふむふむ、と思いながらも、なんとなーくしっくりこなさを感じていた。それについてぼんやり考えているうちに、先ほどの「村社会」というワードに行き当たった。

なにもこれは、演劇に限ったことじゃないと思うんだけど。音楽にしたってスポーツにしたって何にしたって、いわゆる "娯楽" というか、趣味にあたるもののジャンルっていうのは(最近の俗語でいうと、 "クラスタ" ってやつだろうか)、日本においては「村社会」の構造をしているのではないか、と思ったのだった。

海外ではそれら一つ一つが、ある種の社会性を帯びていて、それをやることがある種社会的にメッセージを発する、ということに意外と自覚的であるように思う。
言い換えれば、そのジャンルに関わる(=そのジャンルを支持する)っていうことが、そのジャンルの外側に対して、ある種のメッセージ性をもっていることを、よくわかっているように思う。

日本人には、その感覚はあまりなさそうだ。

あるクラスタでかたまり、それはクラスタ内でのみ互いに作用していて、その外側に対しての影響というのは実はあんまり気にしていないし、意図的に広げようともあまり思っていない。むしろ排他的にすら映る。

この様子は昔ながらの "村" に似ているのではないだろうか。

基本的に、村の住人にとってそこは居心地がよく、それだけで世界がほぼ完結するから、よそ者には排他的になる。そして村ときいてイメージするのは、なんとなく陰湿な感じ……実はギスギスした人間関係とか……そういうことが、現代においては "クラスタ" と呼ばれるようなその中で、起きているんじゃないだろうか。

それを "見える化" しているのが、インターネットだ。

TwitterにしてもFacebookにしても……というかそもそもインターネットというものが……基本的に "じぶんの興味あること" ばかりになるツールだ。

ネット上には膨大な情報があるはずだが、そのうち自分が見ているのはほんの一部で、それは全体からすると、きっとかなり偏っている。

「世界中どことでも繋がっている」ようで、本当は「自分の周辺、せいぜい半径5km位のこと」しか実はネットで繋がってない(繋げようとしていない)のではないだろうか。事実、LINEやTwitterで最近やりとりした人たちは同じ町(ぼくの場合、名古屋か、広げてもせいぜい愛知)に暮らす人が大半だと思うし。

そう、だから、つまりまとめるとこういうことだ。

「わたしたちは、オープンなようでいて、実はとても閉じた世界にこもっている」

インターネットの話でいえば、90年代の、まだ "ADSLすげー!" だったあの頃のネットの方が、ある意味今よりよっぽど自由な雰囲気が漂っていた。あの頃より、どこをとっても自由度はより増してるはずなのに、なぜか今の方が閉塞感を感じる。

……そしてこの "村社会" というキーワードから演劇の機能についても考えが飛躍していったのだけれど、長くなるのでまたそのうちにします。


ばーっと、あたまでぼんやり考えてることを書き連ねてみました。いざ書き出してみるとまとめるのが難しいな〜。訓練が必要かもしれませんね……。