先日、とあるトークイベントでお話をきました。それから、ぼんやりこのワードが、頭の片隅に漂っている。
演劇のトークイベントなので話題は「演劇とは」「演出とは」「劇場とは」というはなしだったのだけれど、なかなか濃い話がきけた気がして、おもしろかった。
劇場の機能、みたいな話が後半にがっつりとあって、三浦さんのおはなしにふむふむ、と思いながらも、なんとなーくしっくりこなさを感じていた。それについてぼんやり考えているうちに、先ほどの「村社会」というワードに行き当たった。
なにもこれは、演劇に限ったことじゃないと思うんだけど。音楽にしたってスポーツにしたって何にしたって、いわゆる "娯楽" というか、趣味にあたるもののジャンルっていうのは(最近の俗語でいうと、 "クラスタ" ってやつだろうか)、日本においては「村社会」の構造をしているのではないか、と思ったのだった。
海外ではそれら一つ一つが、ある種の社会性を帯びていて、それをやることがある種社会的にメッセージを発する、ということに意外と自覚的であるように思う。
言い換えれば、そのジャンルに関わる(=そのジャンルを支持する)っていうことが、そのジャンルの外側に対して、ある種のメッセージ性をもっていることを、よくわかっているように思う。
日本人には、その感覚はあまりなさそうだ。
この様子は昔ながらの "村" に似ているのではないだろうか。
基本的に、村の住人にとってそこは居心地がよく、それだけで世界がほぼ完結するから、よそ者には排他的になる。そして村ときいてイメージするのは、なんとなく陰湿な感じ……実はギスギスした人間関係とか……そういうことが、現代においては "クラスタ" と呼ばれるようなその中で、起きているんじゃないだろうか。
それを "見える化" しているのが、インターネットだ。
ネット上には膨大な情報があるはずだが、そのうち自分が見ているのはほんの一部で、それは全体からすると、きっとかなり偏っている。
「世界中どことでも繋がっている」ようで、本当は「自分の周辺、せいぜい半径5km位のこと」しか実はネットで繋がってない(繋げようとしていない)のではないだろうか。事実、LINEやTwitterで最近やりとりした人たちは同じ町(ぼくの場合、名古屋か、広げてもせいぜい愛知)に暮らす人が大半だと思うし。
そう、だから、つまりまとめるとこういうことだ。
「わたしたちは、オープンなようでいて、実はとても閉じた世界にこもっている」
インターネットの話でいえば、90年代の、まだ "ADSLすげー!" だったあの頃のネットの方が、ある意味今よりよっぽど自由な雰囲気が漂っていた。あの頃より、どこをとっても自由度はより増してるはずなのに、なぜか今の方が閉塞感を感じる。
……そしてこの "村社会" というキーワードから演劇の機能についても考えが飛躍していったのだけれど、長くなるのでまたそのうちにします。
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ばーっと、あたまでぼんやり考えてることを書き連ねてみました。いざ書き出してみるとまとめるのが難しいな〜。訓練が必要かもしれませんね……。