孤独部の日誌

名古屋とサウナとひとり旅

最近よんだ戯曲

戯曲を読みたい、と最近ふと思うようになって、芸文(愛知県芸術文化センター)にあるアートライブラリーに久しぶりに足を運び、なにかないかと探した。

往年の名作も読んでみたいと思うけれど、とりあえず現在の戯曲を読みたいと思い、数冊手にとった。

そのうち一冊がこれ。 

 

トロワグロ

トロワグロ

 

 2015年の岸田國士戯曲賞(演劇界の芥川賞と呼ばれているらしい)受賞作。

 

そもそも戯曲を読みたいと思った動機が、「戯曲読んでもわかんねぇんだよな」って思いを断ち切りたかったという思いがあったんだけど、やっぱりいい戯曲というのはそれ自体でしっかり立ち上がっていて、読んでいてとてもおもしろかった。

これは一気に読んだ。必ずしも一気に読むっていうのはいいことじゃないって保坂和志とか読んで思うようになったんだけど、芝居は途中で巻き戻しも早送りも一時停止もできないので、最初から最後まで一気に読んでおもしろかった!って思えるってすごい大事だなって思う、思った、これを読んで。

過去にみたテネシー・ウイリアムズだったかチェーホフだったか、をみたときに感じた時代を映し出す何かを感じたし、それはまさに現代の日本で、なるほどフィクションを通して現実を客観的に見たような、そんな気持ち。

 

表層というのは必ずしも重要ではなくて、というのはこの作品は一幕物の会話劇という形なのだけれど、表出しない表現(暗喩?)によってきちんと言及したい様々なことが盛り込まれているように感じて、表層のドラマを動かすためにあれやこれやがあるのではなくて、ウラがあるっていう感じがした。表面のドラマをおもしろくするだけでもけっこう大変なことだと思うけれど、ちゃんと中身がある……いや、それはむしろ逆で、本質があるから表面のドラマはそのラッピングでしかないって感じ?とにかくただのおもしろドラマではなかった。そういうのがぼくは好きみたいだ。

 

どうやったらこういったものがかけるのだろうとちょっと考えたんだけど、とにかく現代っていうものを構成する要素を書き出して、それらをうまく整理していい順序に並べたり組み合わせて物語ないしキャラクターや場をつくる、ということをすればわりとそういう感じのものにはなるんじゃないかと思った。才能・センスっていうより、努力とデザインっていう印象。全然話関係ないけど最近流行りの音楽もそういう印象、ちゃんと勉強してちゃんと練ってつくられてる、計算されてる。

 

文体は終始軽い言葉という印象で、なんだか「あ、こんな感じでいいんだ」と思った、その文体の軽やかさというのも当然意味があって、今の時代っていうのはこんなにも軽いんだなぁ、という感じがする。この作者の方がCMディレクターというのもなんだかすごく合点がいって(ソフトバンク白戸家シリーズをてがけているそう)、結果論でいえば取るべくしてとってるな、そういう時代だなという雰囲気ある。

 

 

現在地

現在地

 

 同時に岡田利規さんの「現在地」も借りて、これに2010年あいちトリエンナーレで観た、「わたしたちは無傷な別人である」も入っていて、読んだ。舞台で観た記憶と活字で読む印象はかなり違っていて(まぁ記憶もだいぶ曖昧だけど)、活字はするっと入ってくる印象があった、文章も平易。舞台で観たときは一見難解さを感じながらも不思議と入ってくる、なんだこれ、って印象だったのを深く憶えているけど、まったく別物くらいな感じで印象が違った、たぶん舞台を観た時にはことばやおはなしの中身は全然入ってきてなかったんだと思う。

「現在地」も読んだ、おもしろかった、舞台も観たかったと思った(見逃した)、おはなし的にも演劇の構造としても目からウロコな革命的なことをなそうとしている感じがして、すごい。そうでありたい。

 

話はとぶけど、最近はネット上で戯曲を公開しているケースもちらほらあって、さがすと読める。ロロ「いつだって窓際であたしたち」の台本は最近ようやく読んだ。まだ「校舎、ナイトクルージング」は読んでない。早く読みたい。

 

lolo-koko.com

 

そもそも読みたいと思ったきっかけはじぶんで書こう!というところが出発点なので、早いこと書きたい。手を動かさないとモノはできない。