孤独部の日誌

名古屋とサウナとひとり旅

名古屋学生演劇祭をみて考えたこと


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名古屋学生演劇祭を、日曜日に通しでみてきました。

 

3組✕4団体、全12団体。

12作品もあればいろんなものがあるだろうと思ったのだけれど、振り返ってみると、表面的にこそ違えど、けっこう似たり寄ったりだった。

 

冠してある通りに〈名古屋〉〈学生〉〈演劇〉だったように思う。想像以上に。

 

多くの作品が「大人になるってどういうこと?」ということを言っていたように思う。そして、そのほとんどが「自分はもう自立した大人だ」っていう姿勢ではなくって「わたしはまだ子ども」という姿勢だった。

なぜだろう、と考えてみたら、そこが〈名古屋〉という地域性なのではないか、という考えに至った。

名古屋の大学生の多くはきっと、東海出身で、実家通いのひとが大半(自分も大学生の頃そうだったし、当時の自分の周囲の人間もそうだった)。実家を遠く離れて一人暮らしをしているひとは少数派だ。だから、大学に進学し二十歳になっても、毎日親とともに暮らしている。だからか、作品中で出てくる家族もほとんど同居だった。無意識のうちに親と一緒にいる(あるいは、離れたくないのに離される)物語をしていた。親を神格化するような扱いだった。「本当の自分ってなに?」みたいな問いも頻出したけど、それの回答も親から導き出してる感じが強かった。

 

実家を離れ下宿をはじめた大学生なら、おそらくこうはならないんじゃないかと推測する。

一人暮らしをはじめて自分で衣食住をまかなう生活をはじめたひとは、「自分は自立した人間だ」と思うようになる(自分がそうだった)。だから同じ〈学生〉でも、一人暮らしをはじめた人とそうでない人はその自覚が大きく異なると思われる。前者にとっての大学生活は「人生はじめての親のいない生活」だし、後者は「高校生活の延長としての学生生活」。両者の間には大きな溝がある。

以上が、〈名古屋〉〈学生〉についてだけど、もう一つ〈演劇〉について。

今の現役学生が〈演劇〉と呼んでいるものは何かということなのだけれど、思った以上に振り幅が狭かった。おそらく彼らの大半が呼んでいる〈演劇〉とは高校演劇のこと(それも全国レベルではなくて、地区〜県大会くらいのよくある作品)。それにプラスしてこれまでに学校などで触れた児童劇や、高校・大学演劇での稽古の雰囲気(エチュードとか)。

演劇の間口が思ってたよりずっと狭かった。アニメとかの要素がもっとあるかと思ったら、発声が声優っぽいとかお話が若干SF・ファンタジーっぽいとか、人物がキャラっぽいとかということぐらいで(それも全体で見ると若干という程度)、影響らしい影響はそんなにないように感じた。こういう時代だからアニメとか音楽とか映画とか、もっと色んなものから影響を受けているかと思ったら全然そうではなかった。

〈名古屋〉の〈学生〉の〈演劇〉ってこういうものなのか、というのを全体通して感じた。そして、上記のことに当人たちは無自覚だとも思った。

(余談だけど劇団ハイエナと野坊主で大阪が出てきた。たぶん事実から引き出されたことばだから偶然だと思うんだけど、なぜ東京でなく大阪だったんだろう?)。

 

なんかちょっと批判的になっちゃったけど、約10年前の自分が大学演劇やってた頃も振り返ってみればそうだったんだと思うので、少なくともこの10年はそんなに変わらなかったということなんだと思う。それはつまり、先人がこの10年間、大した影響を与えられなかったということだ。名古屋の演劇シーンは停滞していると言ってもいいのかもしれない。あれから10年、未だに続けているぼくにもその非がある。

 

ひとつひとつの作品を見ればおもしろかったところもたくさんあって、見終わった後はけっこう充実感があった。しかし〈祭〉それ自体のおもしろさは、こういう形だからこそ全体が見渡せることにある。

野坊主の作品のラストで、「勉強しよう」ということばがあったけれど、その一言に集約されるな、と思う。知らない・わからないことに気づけたら、学ぶことができる。もっと自分も学生の頃に勉強しとけばよかった。学生の本分は勉強ということを、考えさせられた。

 

名古屋学生演劇祭