孤独部の日誌

名古屋とサウナとひとり旅

中学生の頃、尾崎豊のライブ盤をよく聴いてた

中学生の頃、尾崎豊を聴いていた。

尾崎豊はぼくが物心つく頃にはもう亡くなっていた。だからリアルタイムには知らない。GLAYが好きになり、メンバーのインタビューとかファンブックを読んで、そこに名前があがったアーティストをレンタル屋で探して聴き漁っていた時期があった。

めちゃめちゃ聴いた気がしていたけど、オリジナルアルバムはほとんど聴かなかったため、意外とぜんぜん曲を知らない。有名どころしか知らない。

 

LAST TEENAGE APPEARANCE

LAST TEENAGE APPEARANCE

 

 たしか、こればっかり聴いていた。ライブ盤。

じぶんの、若干昭和の臭いのする価値観はいったいどこから来ているのだろう、ということを昨日のブログをかいたあとからぼんやり考えていた。なんとなく思い当たったのが尾崎豊だった。熱い感情に胸打たれる、というのが自身のこれまでの経験の中で印象強い場面が多い。その原点って、もしかしたら尾崎豊のこのCDが一端を担ってるのかもしれない。もっとも、CD自体は手元にはなく、レンタルしたのをCD-RかMDに落としたものを聴いていたと思うんだけど。

 

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なぜ自分は尾崎豊をリアルタイムに知らないんだろう、と思う。好きになったGLAYも2001年のライブに偶然足を運んだのがきっかけだったから、爆発的に売れていた90年代後半のことはほぼ後追いでしか知らない。好きになったインディーズバンドはすでに解散していたりしたこともあった。自身に影響を与えたものを振り返っていたら、そんなことばかり思い出してきた。憧れてるものがもうそこにはない、という謎の喪失感みたいなものがつきまとっている。これはきっと逆で、もうそこにないからこそ、より強く引き寄せられるってことがあるのだ。でも追い求めてももうどこにもないもんな。はがゆい。理由あって(別に断ることでもないけど)過去の流行や自身の通ってきたものを振り返っていると、久しぶりにそういう気持ちが増幅する。自分も尾崎豊の年齢を越えて、もう大人になってしまったんだ、なんてことを考えてしまう。でもほんと、あの頃ってまったく想像できなかったもんな。あの頃の未来にぼくらは立っているのかな。尾崎豊みたいになりたいと思ってた中学生の頃のじぶんは、今の自分をなんていうんだろうな。

 

 

「三十歳までなんか生きるな」と思っていた

「三十歳までなんか生きるな」と思っていた

 

 この本にも似たようなこと、かいてあったな。