孤独部の日誌

名古屋とサウナとひとり旅

夏のしおり

何年か前の夏のできごとを、ふっと思い出そうとしている。

具体的なことを書くのはさけとこうと思うんだけど、不思議と夏は、こう季節と結びつきやすくて、そうそう、あのときはあんな服を着ていたな、とか、クソ暑かったなとかそうでもなかったなとか、起きたできごとやそのときの感情の動きよりも、その周辺にまとっているささやかなことばかり思い出す。肝心のことについてはなかなか思い出せない、というか、なんか実感が伴わなくて、そう、実感が未だに伴っていないのかもしれない。

会わなくなったひとというのは、私にとってはもういないのとほぼ同然だし、反対にいなくなったひとというのは、会わなくなったひとというのとそんなに変わらない。

それでも、その正直だんだん薄れいってる記憶の中にその人は、というかそのひとの空気というか、その人とじぶんとの間や周辺をまとっていた空気感みたいなものだけどことなく憶えていて、でもまぁ、もう会えるわけでもないので、それをじゃあどうするということもできない。

何かに、たとえばこうしてことばに書きつけてみたり、たとえば誰かに話してみたりなんらかの形にして残してみようと試みても、内側の記憶でなくなったらもうそれは本質を失った別のものに変わってしまう気がする。それは他人にとってもちろんそうだし、じぶんにとってもやっぱりもう内側のそれとはちがうものになってる。なのでしてもしょうがないという気になる。

それでもなんとなくこうして書き始めちゃったのは、なんていうか、しおりみたいなもので、それそのものではないにしても思い出すための、そう、しおりになるかもしれないと思った。

夏、というだけで思い出すことがあったのに、年々思い出せなくなっている。たぶんもっとあったはずだ。いま2つは思い出してるんだけど、たぶんもっとあったはずだ。1つ、2つと羊を数えるみたいに辿っていけば思い出すことはあるんだけど、なんだか無理やり思い出してるみたいでそれもちょっと違う気がする。

どうしたらいいのかわかんなくてとりあえずかいた。書くことですこし思考が進んだ気もするけど、でもやっぱりどうしたらいいのかわかんない。こうして抱えておくしかないことってあるんだろな。墓までもってく秘密とか言うけど、それともちょっと違くて、捨てることもわかちあうことも容易にできない記憶というのが、ひとにはある。

だれもが人並みに、同じようにそういうものを持ち合わせているんだろうな。