孤独部の日誌

名古屋とサウナとひとり旅

phaさん「持たない幸福論」を読みながら思ったこと

phaさんの「持たない幸福論」の文庫版が出たので、ポチってみた。

 

 ※リンクは単行本です

 

昨日届いて、もう半分くらい読んじゃったんだけど、最初の方に書いてあることに「そうそう、最近そういうこと考えてたんだよなぁ」というのがあってうれしくなった。現代の"生きづらさ"について触れられている、という感じがする。

 

 

そうそう、今じぶんが信じている価値観というのはどこか旧時代的な部分があって、それと現実の変化との折り合いがついていない、と感じる機会がこの頃多い。

「学校卒業して、就職して、結婚して、子どもをつくって……」という、クレヨンしんちゃんの野原家みたいなものを無意識にロールモデルにしてしまっているところがあって、それは実は昭和時代の産物なんだけど、そのモノサシを今もじぶんに適用しようとしているきらいがある。自分だけでなく、同世代をみればなんだかんだ言いながらもそのロールモデルに則っているところが大きいと思う(もちろんそれはそれで別に悪いことでもないんだけど)。

つらい、と感じるのは、そのモデルを自分にあわないだとか古いだとかでどこか信じられなくなりつつあるのに、それしか自分の中にモノサシがないゆえに乗り換えられない、というところ。たまにいわれる"新しい生き方"というのは、それをなしてるひとがある種ただの成功者に映るところがあって、「いやいやそんなの凡人のじぶんにゃ無理だよ」と思ってしまう。

これはただの卑下なのだけど、例えばphaさんのように思いきってニートになって、それでも生活していくというビジョンが今の自分にはわかないし、「まだ東京で消耗してるの?」と言い放って田舎暮らしを選ぶというのも自分にはできない、というか、"東京に出て消耗することすら二の足を踏んでしまった"のが自分だ。別に東京に出たいと思ってたわけじゃないけど、でも今になって出とけばよかったかな、なんて思うことがないとは言い切れない。変な言い方だけど、"ちゃんと消耗することもできなかった"と思う。

たとえば夢を追って、あるいは憧れで東京に出て、結局なにもできずに諦めて地元に帰る、あるいは東京の生活に飲まれていく、というのは、それはそれでワンステップは進んでいる。わかりやすく「地元を離れる」というワンステップを。それに対して地元圏に残ることを選んだじぶんとしては、その時点でそのワンステップを踏まなかった、ということになる。諦めて帰ってくる地元と、そこに居続けての地元は、意味合いが違う気がする。(まぁ、そういう経験がまったくないわけじゃないんだけど。だからこそこんなこと思うんだろうけど)

「そんなこというなら今からでもやれば?」という声がきこえてきそうだけど、別にそうしたいというわけじゃない。この選択は自ら望んでしたことだったので、"そうだったかもしれないなぁ"と想像することがある、という程度の話。

っていうか、"東京に出て一旗揚げる"というのがそもそも一昔前からのモデルイメージのような気がしていて、きっとそれに取って代わるモデルが必要なんだと思ってるんだけど、未だにいまいち見えてこない。ネット上では先進的な生き方の可能性が次々提示されているけれど、なんでかすごく興味はあるのにそれに乗っかってみよう、というようにはなれない。いまいち"ネットに受け入れられない"感じが昔っからするんだよな。先進的に見えるものが好きなのに、人間的な根っこがどうも昭和っぽい。

 

 

なんだか書きたかったことからそれてウジウジした自分みたいなことばかり綴ってしまった。書きたかったのはそういうことじゃなくて。

話を戻して、本の中で目からうろこというか、なるほどと納得したことがあって。

 

多くの人の本当の行動の目的は、「暇潰し」というか「何もしていないと不安だからなんでもいいから何かをやっておく」くらいのものだ。「仕事をこなすことで達成できる何か」なんてものは、何か行動するときにとりあえず目標がないと何をやっていいか分かりにくいから、前方の遠くに飾っておく単なる目印みたいなものだ。

要は、みんな何もせずにぼーっとしているのが苦手だから、何か意味のありそうなことをみつけてやって時間を潰しているだけ、ということが世の中には多い気がするのだ。

(pha「持たない幸福論」文庫版 p32より)

 

このあたり。抜き出しちゃうと文脈というか雰囲気が失われてしまって違う感じで捉えられそうだけど。

手段と目的が本当は逆転していて、何かを成すためにやってるっていうより、手持ち無沙汰を埋めるためにぼくらは何かをやってるにすぎないんじゃないか。と思うことがままある。実際、結果なんて出てしまえば成功だろうが失敗だろうがどっちだってよくて、手持ち無沙汰が埋まったっていうそれだけのこと、なんてこともある。失敗したときはともかく、成功したときでもあんまり達成感というか、喜びがないことは往々にして経験ある。

だからこのことを指摘されて、ああその通りだわ、と素直に思うのだけど、じゃあ「今やってることは暇つぶしです」って言えるかっていうと言えない。いや暇つぶしなんだけど、つまるところは。でもなんか"意味がある"と思われておきたいという自己保身が働く(何から保身してるのだろう?)。そういうところが、他人のモノサシでしか自分を測れないというか、"自分は自分"と割り切れないというか。もうちょっと自分のモノサシを信じられたらと思うんだけど。

 

 

自分自分になってしまったけど、でもきっと今の世の中に自分みたいな考えのひとはけっこういるんだろうな、と思う。既存の路線にもうまく乗れない、かといって新しい路線に挑戦するほどの思い切りはもてず、その人なりの折り合いのつけ方を模索してる……みたいな。否が応でも生活は続くから、とりあえずでも折り合いをつけてかなくちゃいけない。そこで心を強く「わたしはこうだ」って思えればまだいいんだろうけど、誰もがそんな風に思えるわけじゃないよね。

世間はもう21世紀モードの社会に変容しつつあるのに、人間の価値観はまだまだシフトできてない、っていう感じがこの頃の社会問題なんかからも滲んでいる気がして、なんだかけっこう生きづらいな。今の自分の折り合いのつけ方が、別に無茶苦茶嫌というわけではないのだけど、でもなんだかなという気はしている。もうちょっと自分のモノサシを信じられたらいいのだろうけど。

 

 

しないことリスト

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読み終わったら他の本も読んでみたい。