孤独部の日誌

名古屋とサウナとひとり旅

日記をかいている

日記をかいている。

今年の頭から。
スケジュール帳がわりにしているアプリに、その日何をしたかだけを、箇条書き程度に書きつけている。

書くタイミングは思いだしたときだから、一日二日あいてしまうこともある。
そういうときは、なんだったかな……と思い出しながら書き出す。

今日までで27日。早いものでこの間まで正月だったのに、もう一月も終わりが近づいている。そういえば正月気分など、もうとうに忘れてしまっている。

どうしても思い出せない一日があって、その日は休みの日だったのか、昼に起きたということだけメモしてある。
そこから思い出せないのだ。
前後の日はきちんとメモがあるから思い出せそうなものだけど、うんうんと頭を捻っても、どうも思い出せない。いったいこの日、ぼくは何をしていたのか。


人間の記憶というものは本当に曖昧なものだ。つい一、二週間前のこともすっかり抜け落ちている自分の記憶力に驚愕だ。記憶力、とはちょっと違うか。

そういえば、そのときは自分にとっては重大で、頭を埋め尽くしてるような問題でも、ときが経てばきれいに忘れさってしまう。(例えば、好きだったあの子にフラれた、だとか)

こうして今、ぼくはブログを書いているし、これを読んでくれている人は今まさに読んでいるのであろうけれども、おそらくきっと、この瞬間のことはぼくもあなたもすぐに忘れることだろう。
明日になって思い返すことも、おそらく可能性は低いだろう。

だったらなぜ書いてしまうのか、読んでしまうのか。なんてことを思ったりする。

そう考えだすと本当に何もかもそう思えてしまう。
今日何を食べたかなんて、よほど変わったものを食べたりしない限り憶えていないだろうし、仮に憶えていたとしても、そのときにはきっと今日、つまり2015年の1月27日(日付変わったから28日か)という日付自体を憶えている可能性は記念日でもない限りは、ほぼないだろう。

そうなってくるといよいよ、果たして日付で区切るのが過去を振り返る上ではほとんど意味がないのかもしれないと思えてくる。


過去に限ったことじゃない。未来だってそうかもしれない。

時間というものは、便宜上区切っているわけだ。明日の朝9時がぼくとあなたとで違っていたら、仮に待ち合わせしていたとして、会うことができない。そういう意味で時間っていうのは、ハチ公前みたいな(名古屋だからハチ公に馴染みがない。名駅の金時計とか、ナナちゃんか)ものだ。

"私"という人間の体感としての"時間"は、ハチ公前みたいな朝9時とは、別の働きをしているように思う。本当はやっぱり、朝の一時間と夜の一時間がおんなじとは思えない。同様に、同じ一時間でもぼくとあなたでの体感はきっと違うだろう。

……なんてことを書いているうちに、どんどん何を書こうとしていたのか忘れてしまった。
こうしている間にも時間は、実は止まることもなく流れ続けているなんて。やっぱり時間の流れ方ってのは、ちょっと思ってるのと違うみたいだ。