孤独部の日誌

名古屋とサウナとひとり旅

スクリーンショットに映らない絶望

今週のお題「これって私だけ?」

 

携帯の画面が割れた。

 
iPhone5を、一昨年の秋ぐらいから使っている。いや、違ったかも。うろ憶えだ。
その前はiPhone4だった。いまも本体は手元にある。
そして4・5あわせてこれまで、多少の傷はあれど、画面は割ることなく使ってきたのだ。
 
つまり、初めての"画面割れ"である。
 
 
 
割れたのは一人でいるときだった。
家でジャージのポケットに携帯を入れていて、何気なくしゃがんだ。
 
するり、と携帯がポケットから出ていった。
バタンと音を立てて落ちた。
 
いや、落ちたというほどでもない。
落下というより、まるで抱きかかえた小動物が手元から逃げだすときのように、ポケットから出ていったのだ。
 
だから、拾いあげたときはなんとも思わなかった。
でも不思議と、ほんの少しだけ、嫌な予感がよぎったのは憶えている。
 
 
 
数分もしないうちに、何気なく携帯を取りだし見ようとすると、画面に髪の毛が貼りついている。画面の上から下までの、長い髪の毛だ。
 
なんだこれ?と思ってよくよく目を凝らす。細い線。
すこし画面を横に傾けてみると、その線は虹色のような、不思議な光を帯びていた。
 
嫌な予感があらためてした。
 
目を凝らす。するとその線は、画面上部にも、下部にもはみ出している。髪の毛でないことはこの辺りでもう察していた、認めたくはなかったが。
 
決定的だったのが、ホームボタンの辺りだ。
幾つかの亀裂が、地味に走っていた。
 
ああ、やってしまった。
とうとう、やってしまった。
 
ショックのあまり、深くため息をついたようだが、完全に無意識だった。
 
 
 
人といるときだったらまだよかった。
 
一人、部屋のなか、ヒビが入ったばかりの携帯を握りしめた。
 
なぜポケットに入れていたのか。
なんであの程度のことで割れるのか。
なぜよりによって、画面にこんな亀裂が走ってしまったのか。
 
ひとりで、どうしようもない後悔とともに、途方もない絶望感が押し寄せてきた。
もう、取り返しがつかないのだ。
時間が、戻ることなどない、ただ一方向に流れているものだということを、感じた。
 
 
そして今も、髪の毛ほどの細い線が入った画面をみながらこれをかいている。
視界でちらちらするその亀裂が、携帯を見るたび気になって仕方がない。
 
 
誰かとこの亀裂とそれに伴うぼくの絶望を分かち合いたいと思って、画像を貼り付けたくなる。
 
 
映らない。当たり前だ。
だって割れたのは画面なのだから。
あやうく意味もなく待ち受け画面を晒すところだった。
 
 
 
わたしだけだろうか。
 
いや、きっと多くのスマホユーザーが経験しているのだろう。
 
スマホの画面が割れ、誰かと分かち合いたいと思ってスクリーンショットを試み、そのヒビがどうにも写せないものだと知る。
 
果たしてこれほど孤独なものが、あるだろうか。
 
割れた画面は、携帯という現代においてのコミュニケーションツールの象徴だ。
そのツール自体であるこの画面のことを、誰とも分かち合えないなんて。
ひとり部屋で、画面が割れたことと同じ位、そのことに絶望していた。
 
 
きっと画面が割れたまま使っているひとは、わたしだけじゃないだろう。
 
みんな、こんな絶望的な気持ちを感じたんだろうか。
画面の傷は、その携帯の持ち主だけに向けられた、孤独なものだ。
他の誰でもなく、その持ち主であるわたしだけに差し向けられた傷。
 
あれからもう数日が経つが、今も画面を見るたび、すこし落ち込んでしまう。