孤独部の日誌

名古屋とサウナとひとり旅

「アジア沈殿旅日記」を読んでる

梅雨入りした。今日も雨。休みなので家からは一歩も出ず、家で過ごしている。

自粛からの梅雨、そして暑い夏と、しばらく思いきった外出ができない日々が続きそうだ。

最近の読書ブームはまだ続いている。先日、ようやく再開した図書館に借りっぱなしだった本を返しがてら、また数冊借りてきた。そちらから読むべきだけど、先に買った本から読みだしてしまった。

アジア沈殿旅日記 (ちくま文庫)

アジア沈殿旅日記 (ちくま文庫)

 

いま読んでる本は宮田珠己「アジア沈殿旅日記」。この方の本が好きで、もうだいぶ読み終えてしまった。

いま読んでる本では、"旅そのものについて" 書かれていて、鬱々とした雰囲気でありながらも共感するところも多くて、旅行中のワクワクはもちろん、そうでない部分まで全部含めて想起させる。

 

旅行って、実は四六時中たのしいわけではなくって、旅中にも面倒事があったり悩み事があったり、あるいは作業的で無為な時間があったりする。

終わってしまえばそれらの部分は忘れてしまいがちだけど、実は記憶に残るような楽しい部分は旅行のうわずみ部分でしかなくて、はっきり記憶にも残らないような時間こそが「旅情」を形づくっているんだと思う。わざわざ足を運んだ有名観光地よりも、その何気ない乗り換え駅で見た景色のほうがふしぎと印象に残ったりする、あの感じだ。

"あの感じ" を意識的に捕まえるのって、けっこうむずかしい。こっちから捕まえに行くと逃げられてしまう。読み物のように、他人に伝えようとするとさらに難しいだろう。だって景色としてもエピソードとしても、おもしろくもない、なんの変哲もない瞬間なのだから。

でもそのような瞬間の積み重ねこそが「旅情」だと思う。そしてそれは、仮に同じ時に同じ行程で、同じように旅をしたとしても、人によって異なるものになるだろう。

ぼくが旅行にはまり出したのはここ数年のことだけど、中身は至って普通というか、予算の少ない貧乏旅行だからきっと普通以下だ。行き先もありきたりだ。そんな内容でもまたどこかに行きたくなるのは、この「旅情」を求めてるんだと思う。どこか知らない場所を歩いて、知らない景色をみたい。それは特別な景色とは限らず、むしろ何でもない道とか、名もない店先の風景だ。それに出会うために、とりあえずの目的地をどこかの観光スポットに定める。そんな感じだ。

秋ぐらいになったら、どこかへ出かけられるだろうか。海外にも行きたいのだけど、それはもうちょっと先だろうか。こんな本を読んでしまったので、どこかへ行きたくてうずうずする心が、またわいてきてしまった。